俺には理解できない
勝ち負けがあるからスポーツや勝負は面白いのに
応援してる対象が劣勢になるとチャンネル変えたりテレビ消す奴って何なの
>>1
お前さ、仕事疲れて帰ってきて野球見ようとテレビ見てたら
逆転サヨナラ負けとか味わってみ?
>>6
結果だけネットで見れば?
勝ち馬に乗りたいだけの奴って何なん?
スポーツ観ないで予定調和のプロレスでも見てればいいのに
でもお前嫌なことあると仕事すぐ辞めるじゃん
わざわざいやな気持になる必要ないよね
勝てそうな時だけ見る奴ってスポーツを見たいわけじゃないんだよな
負けそうになったとたん勝負が無かったかの如くチャンネル変える
自分で自分の機嫌をコントロールするのはいいことだと思う
俺逆だわ
勝ってるとどうでも良くなる
俺クラスになると勝ってる方を応援してるから問題ない
これか
中流と労働者階級をスポーツ狂いに追いやる動機はふたつある。 ひとつは、社会的には敗者の彼らが、勝者と一体感を味わう必要。
人差し指を立てて「俺たちゃ一番!」と小躍りして叫ぶことが彼らには必要なのだ。 あるホッケーの選手が言っている。
「プロスポーツの目的は絶対的に勝つことだ。 ぼくらは勝利を売っているんだ。日常生活では勝利を味わえないたくさんの人たちに勝利を売る。
お客は〈自分の〉チームに我を忘れる。つまり勝つチームと同じ気分になるわけだ」
この代理成功の魅力に加えて、スポーツが中流やその下の労働者階級にも人気があるのは、 知ったかぶり、独断、記録をとること、人の知らないちょっとした知識、
普通は「決断を下し」たり「管理し」たり「意見を形成する」階級に独占されている類いの似非学識を気取ることができるからである。
ワールドシリーズやスーパーボウルは、誰にでも退屈な博識者ぶる機会、一時的に立派な酒場の学者を演じる機会、短い期間だけ上位の階級の真似をして重大演説したり、
意見を披瀝する機会を与えてくれるのである。
言い換えれば、ワールドシリーズとスーパーボウルは、庶民がなにがしかの自尊心を取り戻すための、年二回廻ってくる無害無益の機会なのだ。
『階級(クラス)―「平等社会」アメリカのタブー』(ポール・ファッセル)
これだけでも究極にダサいのに
更にダサいのが負けると思ったから観るのやめたのに勝つなら最後まで見ればよかったとか言う奴
スポーツの醍醐味は勝ちと負けのふり幅だっていうのに
俺には一銭も入らないからどうでもいい
負けるところが観たくないと言う奴はスポーツ鑑賞に向いてない
負けるから悔しいしだからこそ勝つのが嬉しい
負けを受け入れない奴はスポーツを見るな
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